LIFE LOG(自分ルーツ綴り。)

松山大空襲で戸籍が焼けて灰になっていましたが…。

※この記事は、2021年9月に某所にて公開した記事を編集したものです。



※画像準備中


三津浜愛媛県松山市)出身の曽祖母(祖父の母)の戸籍が届きました。
やはり、空襲で焼けていたんですね。
少し残っていただけでも良かった。
助かりました。


三津浜曽祖母の家は、1870年頃(明治一桁)には今治の島の村上家と繋がりがあることが判りました。
祖父が余所国の村上家の祖母と結婚したのは、極自然な流れでしょうか?
愛媛の空襲のことも、しっかり勉強したいです。


これでたぶん母方の取得できる戸籍は、全部揃ったと思います(取りこぼしがないか確認大事!)
戸籍を読むのは大変で、知恵熱が出そうになります🤯

祖父のご先祖の菩提寺も、たぶんわかりました。
私は祖父の方の親戚は、よく知らないし、親戚も私の存在すら知らないと思います。


私が小学生になったばかりのある日、祖母のお葬式のときに親戚が来て、私のことをコソコソ話していたので、祖父の方の親戚は婚外子の私など認めない・関わりたくないという考えなんかな〜と思います。


なにはともあれ、松山市役所の方、本当にありがとうございました!



私のご先祖・ルーツを辿る記事は、随時更新予定。
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自分のルーツを辿りたい!10

※この記事は、2021年9月に某所にて公開した記事を編集したものです。


今回は、主に父の親戚らにご迷惑をおかけしないようふわっと書きます。

昨日届いて、必要なとこだけ読みました。「日本の名家・旧家」非常に興味深い一冊。

※画像準備中

amzn.to

※編集中

知人の「○○一族」と呼ばれていたお家も、由緒あるみたいです。
あと、田舎の学校の先生らの家はだいたい立派な面構えというイメージ。
うちは何十年も前にスーパー大没落してしまったので本当に何もないのですが、私の知る限り田舎だと古いお屋敷、旧家、地方豪族系(地主系?)は珍しくないです。



▼父の戸籍にあった名字の由来などを調べました。

清和天皇中臣鎌足村上天皇
その他 愛媛にルーツがある名字


・父方のルーツは、広島ではない?
父方先祖は武士?※調査中

・父の元奥さんは由緒ある家の人

父は家柄で女を選んだ?元奥さんだけではなく、私の母も。
※私は婚外子ですし婚外子ということで酷い目にしか合っていませんが、いまは気にしていません。


父方の先祖などを調べたら面白いとは思いますが…父方の先祖の菩提寺も判ってはいるけど、菩提寺がガッツリ父の知り合いかもしれないので父の家族や親戚らに配慮して現時点で何もできません。

宮窪、余所国の方は、いろいろわかってきています。こちらも母方の親戚に配慮して、書けないことが多いです。

「宮窪むかしむかし」には、北畠氏の先祖と村上海賊(村上水軍)の関係が書いてあった気がしますが、能島村上氏の先祖は、清和源氏?源氏?
ハッキリした資料がない(?)からさすがにそこまでは辿れない?
松山の北条市の忽那一族の先祖は、村上海賊?

そして、一見ありふれた「山本姓」
親戚の山本姓は、明治時代に警察官をしていたので、元武家

Wikipedia 「山本氏」によると・・・

本姓 清和源氏義光流 熊野別当支流
家祖 山本義定?
種別 武家
出身地 紀伊国
主な根拠地 紀伊国
著名な人物 山本忠行 山本忠朝 山本康忠
支流、分家
早水氏、柏木氏、錦織氏、大鳥氏


・源氏…源平藤橘
・戦国時代の勢力図では、伊予国(愛媛)は
河野氏西園寺氏、金子氏の勢力が争いを繰り広げた。

伊予国(愛媛)の越智氏、河野氏、村上氏

・村上海賊の主派、能島村上氏が、私の先祖?村上海賊の多くは真言宗
※我が家は真言宗

伊予国新居(現新居浜)の金子氏
私の先祖に、「金子元宅(金子備後守元宅、伊予金子氏)」?

・金子姓のルーツは武蔵国


阿波国(徳島)は三好氏
※徳島は伊藤姓がかなり少ないそうです。

土佐国(高知)の戦国大名は長宗我部氏
長宗我部氏の家臣のひとりが、私の先祖の伊東近江守祐晴(伊藤近江守祐晴)

新居浜の隣の西条市といえば、相撲が有名

・私の祖父がこよなく愛していたのは、相撲(祖父はテレビで相撲を観て感動してよく泣いていました) 


私が小さいころ、祖父から教わった歴史上の人物は伊藤博文以外に坂本龍馬板垣退助西郷隆盛など…あと、邪馬台国の話。
邪馬台国四国説」…邪馬台国は愛媛にあった?
邪馬台国は松山説もあるけど、西条説もあるし、徳島説もある。あの辺りは、「平家の落人」が有名。
伊東近江守祐晴は平家の落人で、高知県愛媛県徳島県の山には平家の落人が住んでいた。
※伊東近江守祐晴は「平家の落人」ではなく「天正の陣」で落ち延びた

Wikipediaによると、西郷隆盛の本姓は藤原姓を称するが明確ではない。



ダーッとまとめるだけまとめただけの記事になりましたが、次こそは宮窪・余所国のことを書けたらな、と。 


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自分のルーツを辿りたい!9

母から詳しく話を聞きました。

余所国の曽祖父母らが映画館や酒屋・米屋・八百屋などを営んでいたそうです。


調べると、余所国の庄屋は村上氏
銘酒笹乃井の村上、旧家(きゅうか)
文政十年(1827年)没 村上仁左衛門
村上仁左衛門は何代も襲名

 
※画像はイメージですが、銘酒ってこんな感じでしょうか?
祖母はこの家の親戚…?母らが住んでいた(?)場所的には合っています。

余所国の村上といえば、笹の井を思わぬ者はいないと思うが、版木によると、元は「北窗」という酒であった。先代幸造氏は非常な熱心家で、新しい感覚の持ち主で、十六才の時周桑郡大頭の酒屋へ酒造りとして雇われて行った。


宮窪むかしむかしより引用

笹の井の村上幸造氏が大島で初めて自転車に乗ったらしく昔、祖父からも「大島で初めて自転車に乗った人がおった^^」と聞いています。

・村上幸造
jahis.law.nagoya-u.ac.jp


▼「宮窪むかしむかし」から、興味深い(?)昔話を紹介します。

余所国村庄屋の蔵の二階に、おもしろい物が目についたので紹介する。それは、昔の皮の靴である。格好は今の靴とは大変な相違である。昔、宮中で行われたけまりの遊戯に使用された靴も、かくやと思われるようなものである。まだ、あまり、はき古していない。これを見付けたとたんに、子供のころ、祖父からきいた自慢話を思い出した。それは、藩政時代の士族以外の登城用の履き物である。昔は士・農・工・商の社会の階級がきびしくて、士以外は雨天でない限り、ぞうりをはいていた。途中武士に会うと、道のわきにより、履き物をぬいで、すねの下に敷き、いわゆる土下座して武士の通るのを待って頭をあげたものである。ところが、靴をはいている者はぬがなくとも、そのまま手をついて頭を下げればよかった。


宮窪むかしむかしより引用


・初代宮窪村長は村上氏
村会議員に親戚の姓が多いようです。

大島の他の庄屋していた家も親戚だと思います。母いわく遠縁に矢野姓がいるようなので、「宮窪むかしむかし」著者の矢野氏は、遠縁と言えば遠縁でしょうか。
「宮窪むかしむかし」著者の矢野氏は、元教員。うちの親戚数名教員で、校長先生もいたと聞いています。

昔、親戚が今治で本屋をしていて、私の家族が手伝っていた。私の親戚は、住んでいた大きな屋敷を売ったらしい。
祖父は祖母の家の映画館の手伝いをしていたとか、大島といえば国会議事堂にも使われている石が有名なので、採石場で働いていたと聞いています。

母は若い頃部活でソフトボールをしていて、ソフトボールが強い高校に行きたくて毎日フェリーに乗って今治の女子校に通っていた。伯母は読書好きで、日本舞踊を習っていた。
あと、少しややこしいのですが、大伯母(祖父の姉)は、祖母の親戚と結婚していて、その家族と曽祖母(祖父の母)が再婚しています。

母が仲良くしていた友だちは、今治の越智さん。親戚に越智姓の方がいても全然おかしくない。

祖母の先祖がすごいんかな?
よく分からないけど、曽祖父母は私が生まれる前に亡くなっているので、一度でいいから会ってみたかったな。


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秋の初めのアイロニー 〜愛媛県今治市の船沈没事故〜 

※この記事は令和3年9月に公開しました。

私の祖母や母が生まれ育った愛媛県今治市、大島の宮窪に詳しい方から「宮窪むかしむかし」という本を教えて頂き購入しました。



昨日届いて、一通り読みました。

この本の著者、宮窪名誉町民の矢野氏は、私の祖母や親戚らをご存知だったのだと思います。祖母の家や、親戚のことがいろいろ判ってきました。

「宮窪むかしむかし」を読んで、3件の船の事故を知りました。


■ 1945年(昭和20年)11月6日
今治市伯方島沖で起きた旅客船
「第十東予丸沈没事故」定員209人にたいし、乗客は521人。死亡401人。行方不明14人。

当日、午前七時出航の第十東予丸は、定刻よりやや遅れて出港した。定員二百十名のところ、複員軍人約三百名と、一般乗客等計五百十九名の上に、手荷物を満載していた。見るからに少し傾いて危げに見え、次便を待つ人もあったという。当日は晴天ながら波浪が強かった。九時半ごろ、伯方島六ツ磯の南西二キロメートルの沖合に差しかかった際、折からの突風を受けて、大ゆれに二三回ゆれた瞬間、転覆した。乗客手荷物等の過剰積載のため、復元する力を失い、またたく間に沈没した。


宮窪むかしむかしより引用



■「第十東予丸沈没事故」の翌年、1946年(昭和21年)11月16日
「宮窪丸沈没事故」

昭和二十一年十一月十六日、午後二時出発のはずであった宮窪丸は、土曜日のため、学生の帰省も多かったので、出かけては、遅れ客に呼びもどされること四回であった。これがこの船の平時からの習慣で、人情的な良さであった。しかし、この人情が仇となって遭難した結果になったという者もあった。以下、だれ彼から聞いた事を記録する。当日は、旧十月十一日、風もなくおだやかな天気で、潮も小潮であった。けれども、定員の三倍以上も乗っていた。馬島・仲渡間の中水道の潮筋に出た時、たいした潮流でもないのに、船のおもてを突っ込んでしまった。船室に入れぬ客が上に一杯で、人通りもできないほどであった。船も改造して、船体を長くしたものだったという。


宮窪むかしむかしより引用


今治港を十三時四十分に出航した宮窪丸は大島の宮窪を目指す途中、沈没しました。

■ 事故原因 乗客定員51名のところ、205名乗船。戦後の混乱により、船不足。動いている船も老朽小型船。


宮窪丸の事故の犠牲者の中に、祖母の妹の名前がありました。犠牲者の慰霊碑もあるようです。慰霊碑が復元されたのは2016年と比較的最近のことで、それまで埋もれていたようです。
終戦後、満州から引き揚げた祖母が妹に会えたのか分かりません。私も昨日までまったく知りませんでした。戸籍の字がかすれていて、分かりにくかったです。

これで、祖母のご先祖の菩提寺が判明しました。


1947年(昭和22年)には、福盛丸が沈没しています。
余所国からも犠牲者が出ているので、その中に親戚がいてもおかしくないと思います。


「宮窪むかしむかし」を読んで、あくまで私の推測になりますが…福盛丸を所有していたのは、私の曽祖父か、親戚だと思います。
「宮窪むかしむかし」には、福盛丸所有者が犠牲者に挨拶回りし、お悔やみを述べ、お見舞金とお香典を差し出して帰ったと書いてありました。
お見舞金とお香典は相当な大金で、福盛丸船主が供養碑も建てたそうですが…犠牲者のご遺族の気持ちを考えると、正直複雑な心境です。

戦後の混乱の中なので、いろいろ仕方ないと言えば仕方ないと思います。ただ、今回のことがご先祖を調べている中で一番悲しいし、できればもっと早く知りたかった。


第十東予丸沈没事故・宮窪丸・福盛丸の事故で亡くなられた皆様ならびにそのご家族の方々に、改めて心よりお見舞い申し上げます。

自分のルーツを辿りたい!8

※この記事は、2021年9月に某所にて公開した記事を編集したものです。


私の祖父は、宮窪のことを「よそくに」と言っていました。
ついでに今治(いまばり)のことを「いまはる」と言っていましたが、昔は「いまはる」とも言っていたそうで今でも年配のかたは「いまはる」と言うそうですね。

(宮窪町に余所国(よそくに)という地名があります。昔は余所国村で、大山村と合併のち、宮窪町余所国になったようです)
私の祖母や母が生まれ育ったのは、大島の宮窪町余所国(愛媛県今治市)。



※画像準備中

↑手元にある村上姓の一番古い戸籍に「余所國(大山村時代)」。

私の家族らは、このあたり↑に住んでいたらしいです。
現在、宮窪について調べいてます。
(写真や情報提供本当にありがとうございました🙏)


r.goope.jp
↑大島が今治市になる前、まだ越智郡だった頃、母と泊まった宮窪の民宿 かぶらぎ。


corioliscafe.thebase.in
↑大島の吉海にある「こりおり舎」で、宮窪のことが書いてある本購入。
こんなインスタ映え系のお店ができたんやね…本は発送待ちです。


あ、あのあたりのかたは、村上水軍の末裔にこだわってないそうです。
私の家族もこだわってないし、正直私も末裔とかよくわかりません。

祖母のご先祖や宮窪のことを訊けるのが、村上海賊ミュージアムやお寺さんくらいでしょうか。

www.city.imabari.ehime.jp


個人に問い合わせると、即親戚に繋がって迷惑をかけそうなので気をつけます。

※私が個人的にご先祖を調べたりしているので、疎遠になっている親戚らに極力迷惑をかけられません。


現在、曽祖母(祖父の母)の戸籍集め中。
西条、松山、今治市役所の皆様、ありがとうございます!


私のご先祖、ルーツを辿る記事は、随時更新予定。
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