LIFE LOG(自分ルーツ綴り。)

自分のルーツを辿りたい!9

母から詳しく話を聞きました。

余所国の曽祖父母らが映画館や酒屋・米屋・八百屋などを営んでいたそうです。


調べると、余所国の庄屋は村上氏
銘酒笹乃井の村上、旧家(きゅうか)
文政十年(1827年)没 村上仁左衛門
村上仁左衛門は何代も襲名

 
※画像はイメージですが、銘酒ってこんな感じでしょうか?
祖母はこの家の親戚…?母らが住んでいた(?)場所的には合っています。

余所国の村上といえば、笹の井を思わぬ者はいないと思うが、版木によると、元は「北窗」という酒であった。先代幸造氏は非常な熱心家で、新しい感覚の持ち主で、十六才の時周桑郡大頭の酒屋へ酒造りとして雇われて行った。


宮窪むかしむかしより引用

笹の井の村上幸造氏が大島で初めて自転車に乗ったらしく昔、祖父からも「大島で初めて自転車に乗った人がおった^^」と聞いています。

・村上幸造
jahis.law.nagoya-u.ac.jp


▼「宮窪むかしむかし」から、興味深い(?)昔話を紹介します。

余所国村庄屋の蔵の二階に、おもしろい物が目についたので紹介する。それは、昔の皮の靴である。格好は今の靴とは大変な相違である。昔、宮中で行われたけまりの遊戯に使用された靴も、かくやと思われるようなものである。まだ、あまり、はき古していない。これを見付けたとたんに、子供のころ、祖父からきいた自慢話を思い出した。それは、藩政時代の士族以外の登城用の履き物である。昔は士・農・工・商の社会の階級がきびしくて、士以外は雨天でない限り、ぞうりをはいていた。途中武士に会うと、道のわきにより、履き物をぬいで、すねの下に敷き、いわゆる土下座して武士の通るのを待って頭をあげたものである。ところが、靴をはいている者はぬがなくとも、そのまま手をついて頭を下げればよかった。


宮窪むかしむかしより引用


・初代宮窪村長は村上氏
村会議員に親戚の姓が多いようです。

大島の他の庄屋していた家も親戚だと思います。母いわく遠縁に矢野姓がいるようなので、「宮窪むかしむかし」著者の矢野氏は、遠縁と言えば遠縁でしょうか。
「宮窪むかしむかし」著者の矢野氏は、元教員。うちの親戚数名教員で、校長先生もいたと聞いています。

昔、親戚が今治で本屋をしていて、私の家族が手伝っていた。私の親戚は、住んでいた大きな屋敷を売ったらしい。
祖父は祖母の家の映画館の手伝いをしていたとか、大島といえば国会議事堂にも使われている石が有名なので、採石場で働いていたと聞いています。

母は若い頃部活でソフトボールをしていて、ソフトボールが強い高校に行きたくて毎日フェリーに乗って今治の女子校に通っていた。伯母は読書好きで、日本舞踊を習っていた。
あと、少しややこしいのですが、大伯母(祖父の姉)は、祖母の親戚と結婚していて、その家族と曽祖母(祖父の母)が再婚しています。

母が仲良くしていた友だちは、今治の越智さん。親戚に越智姓の方がいても全然おかしくない。

祖母の先祖がすごいんかな?
よく分からないけど、曽祖父母は私が生まれる前に亡くなっているので、一度でいいから会ってみたかったな。


私のご先祖・ルーツを辿る記事は、随時更新予定。
応援よろしくお願いします!

秋の初めのアイロニー 〜愛媛県今治市の船沈没事故〜 

※この記事は令和3年9月に公開しました。

私の祖母や母が生まれ育った愛媛県今治市、大島の宮窪に詳しい方から「宮窪むかしむかし」という本を教えて頂き購入しました。



昨日届いて、一通り読みました。

この本の著者、宮窪名誉町民の矢野氏は、私の祖母や親戚らをご存知だったのだと思います。祖母の家や、親戚のことがいろいろ判ってきました。

「宮窪むかしむかし」を読んで、3件の船の事故を知りました。


■ 1945年(昭和20年)11月6日
今治市伯方島沖で起きた旅客船
「第十東予丸沈没事故」定員209人にたいし、乗客は521人。死亡401人。行方不明14人。

当日、午前七時出航の第十東予丸は、定刻よりやや遅れて出港した。定員二百十名のところ、複員軍人約三百名と、一般乗客等計五百十九名の上に、手荷物を満載していた。見るからに少し傾いて危げに見え、次便を待つ人もあったという。当日は晴天ながら波浪が強かった。九時半ごろ、伯方島六ツ磯の南西二キロメートルの沖合に差しかかった際、折からの突風を受けて、大ゆれに二三回ゆれた瞬間、転覆した。乗客手荷物等の過剰積載のため、復元する力を失い、またたく間に沈没した。


宮窪むかしむかしより引用



■「第十東予丸沈没事故」の翌年、1946年(昭和21年)11月16日
「宮窪丸沈没事故」

昭和二十一年十一月十六日、午後二時出発のはずであった宮窪丸は、土曜日のため、学生の帰省も多かったので、出かけては、遅れ客に呼びもどされること四回であった。これがこの船の平時からの習慣で、人情的な良さであった。しかし、この人情が仇となって遭難した結果になったという者もあった。以下、だれ彼から聞いた事を記録する。当日は、旧十月十一日、風もなくおだやかな天気で、潮も小潮であった。けれども、定員の三倍以上も乗っていた。馬島・仲渡間の中水道の潮筋に出た時、たいした潮流でもないのに、船のおもてを突っ込んでしまった。船室に入れぬ客が上に一杯で、人通りもできないほどであった。船も改造して、船体を長くしたものだったという。


宮窪むかしむかしより引用


今治港を十三時四十分に出航した宮窪丸は大島の宮窪を目指す途中、沈没しました。

■ 事故原因 乗客定員51名のところ、205名乗船。戦後の混乱により、船不足。動いている船も老朽小型船。


宮窪丸の事故の犠牲者の中に、祖母の妹の名前がありました。犠牲者の慰霊碑もあるようです。慰霊碑が復元されたのは2016年と比較的最近のことで、それまで埋もれていたようです。
終戦後、満州から引き揚げた祖母が妹に会えたのか分かりません。私も昨日までまったく知りませんでした。戸籍の字がかすれていて、分かりにくかったです。

これで、祖母のご先祖の菩提寺が判明しました。


1947年(昭和22年)には、福盛丸が沈没しています。
余所国からも犠牲者が出ているので、その中に親戚がいてもおかしくないと思います。


「宮窪むかしむかし」を読んで、あくまで私の推測になりますが…福盛丸を所有していたのは、私の曽祖父か、親戚だと思います。
「宮窪むかしむかし」には、福盛丸所有者が犠牲者に挨拶回りし、お悔やみを述べ、お見舞金とお香典を差し出して帰ったと書いてありました。
お見舞金とお香典は相当な大金で、福盛丸船主が供養碑も建てたそうですが…犠牲者のご遺族の気持ちを考えると、正直複雑な心境です。

戦後の混乱の中なので、いろいろ仕方ないと言えば仕方ないと思います。ただ、今回のことがご先祖を調べている中で一番悲しいし、できればもっと早く知りたかった。


第十東予丸沈没事故・宮窪丸・福盛丸の事故で亡くなられた皆様ならびにそのご家族の方々に、改めて心よりお見舞い申し上げます。

自分のルーツを辿りたい!8

※この記事は、2021年9月に某所にて公開した記事を編集したものです。


私の祖父は、宮窪のことを「よそくに」と言っていました。
ついでに今治(いまばり)のことを「いまはる」と言っていましたが、昔は「いまはる」とも言っていたそうで今でも年配のかたは「いまはる」と言うそうですね。

(宮窪町に余所国(よそくに)という地名があります。昔は余所国村で、大山村と合併のち、宮窪町余所国になったようです)
私の祖母や母が生まれ育ったのは、大島の宮窪町余所国(愛媛県今治市)。



※画像準備中

↑手元にある村上姓の一番古い戸籍に「余所國(大山村時代)」。

私の家族らは、このあたり↑に住んでいたらしいです。
現在、宮窪について調べいてます。
(写真や情報提供本当にありがとうございました🙏)


r.goope.jp
↑大島が今治市になる前、まだ越智郡だった頃、母と泊まった宮窪の民宿 かぶらぎ。


corioliscafe.thebase.in
↑大島の吉海にある「こりおり舎」で、宮窪のことが書いてある本購入。
こんなインスタ映え系のお店ができたんやね…本は発送待ちです。


あ、あのあたりのかたは、村上水軍の末裔にこだわってないそうです。
私の家族もこだわってないし、正直私も末裔とかよくわかりません。

祖母のご先祖や宮窪のことを訊けるのが、村上海賊ミュージアムやお寺さんくらいでしょうか。

www.city.imabari.ehime.jp


個人に問い合わせると、即親戚に繋がって迷惑をかけそうなので気をつけます。

※私が個人的にご先祖を調べたりしているので、疎遠になっている親戚らに極力迷惑をかけられません。


現在、曽祖母(祖父の母)の戸籍集め中。
西条、松山、今治市役所の皆様、ありがとうございます!


私のご先祖、ルーツを辿る記事は、随時更新予定。
応援よろしくお願いします!

自分のルーツを辿りたい!7

※この記事は、2021年8月に某所にて公開した記事を編集したものです。



父方の先祖

戸籍から幕末あたりまで辿れました。
先祖の○○右衛門というお名前的に、父方の先祖は元武家だと思います。


父の戸籍に書いてあったこと

大正5年(1916年) 
第一次世界大戦中華民国山東省  
※鄆城県 ○○(読めない)街道 
隊長の今井武夫が戦死の報告?
第65旅団隷下の福山編成歩兵第141連隊連隊長

↑福山連隊区
第六拾参部隊の徴兵…?

※今井武夫は陸軍軍人・最終階級は少将。


※諸事情により、父方先祖のことは今後あまり詳しく書けません。


母方の先祖

・祖父のシベリア抑留期間は、母らが生まれた時期を考慮すると長くて2年?
それでもかなり大変だったと思います。
食べ物もろくになく、お風呂は水風呂だったと祖父から聞いています。
祖父が無事帰って来れなかったら、私は生まれていませんでした。
祖父は私の誇りです。


・先日、母から親戚の名前を聞きました。

祖母の方の面識ある親戚の名字などで検索すると…。
遠縁のご先祖に、海軍の設計士?

某所で知り合った僧侶さんいわく

村上水軍の末裔は海軍にはもってこい。
瀬戸内の島は殆どおさめてたんじゃないですかね」


よくわからないけど、たぶんそうなんでしょうね。
※この記事を書いていた時点で私は村上水軍に興味がなく、知識皆無でしたm(__)m
(ちなみに我が家は真言宗で、村上水軍の末裔は真言宗が多いそうです)


母が、「親戚に海軍の人がおったと思う。
とりあえず、おばあちゃんちはお金持ちじゃった。おばあちゃんも親戚の女をも皆女学校出とる」と話していました。

・親戚に商船高等専門学校卒?がいるとのこと

・親戚に養子数人(?)
養子の名字のルーツなども清和天皇中臣鎌足藤原氏など、私の親戚の名字に同じみ(?)のものばかりでした。



私のルーツを辿る記事は、随時更新予定。
応援よろしくお願いします!

自分のルーツを辿りたい!6

※この記事は2021年8月に某所にて公開した記事を編集したものです。



前の記事にも書きましたが、さすがに伊藤博文と直接関係ないとは思います。
よくわからないまま調べられるだけ調べてはいますが、頭に入りません。


・藤紋の基本は「下り藤」
・千町の伊藤一族の家紋は「下り藤」と「庵木瓜
伊藤博文の家紋は「上がり藤」
・「下り藤」の後に「上がり藤」ができた。
・祖父らは、藤の花が好きだった。


・松山付近の大浜八幡にある伊藤博文像に尾崎行雄↓【三津ヶ浜のげんたろう (その2)さんのブログ記事をシェア】
blog.livedoor.jp


・祖母の戸籍にある鳥取の尾崎家の人が都濃(山口県周南市)の金子家の人と結婚
その家族らが明石(兵庫)、名古屋(愛知)、宇品(広島)
・明石は淡路島に近い ※淡路島と伊藤博文

明治元年(1868年)兵庫港(今の神戸港)ができた。伊藤博文兵庫県知事になる。

・母は高校生の頃、いっとき兵庫県宝塚市の近く)でバイトをしていた。


母いわく、兵庫県に知り合いがいたとのこと。その知り合いとは祖母の知り合いの社長さんらしいです。
※知り合い=親戚?


昔、祖父が忠海の話をしていたし、「鹿が海を泳いどっての〜^^」と話していました。
(宮島付近?たちまち瀬戸内海)
広島県竹原市河野通直の墓 
河野通直の父は村上水軍来島水軍)の大将、村上通康

伊藤博文の先祖をずーーーっと辿ると、河野氏
河野氏は越智氏流

小早川隆景竹原市


少し調べると、

有名な村上水軍は、形式的には河野氏の配下であるが、独自での活動も活発であり必ずしも従属関係にあったわけではない[要出典]。伊予の水軍は大三島大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであった。


Wikipediaより引用


広島県竹原市忠海大久野島(毒ガス製造や、うさぎの島)の近くの大三島(愛媛)、大山祇神社を初代総理大臣の伊藤博文が参拝した。


愛媛県松山市 畑寺の交差点

畑寺の交差点に、伊藤博文の新しい記念碑ができた。石碑には、伊藤博文の祖先
林氏が、桑原の淡路ヶ峠城主であったこと、秀吉の四国攻めで敗れ中国地方に逃れた
こと、博文が道後温泉に来たとき淡路が峠に向かい合掌し、「祖先の供養をしたい」
と言われたことが記されている。


松山の資料 知恵の輪より引用

・祖母の戸籍に桑原姓アリ

①現奈良県である大和国葛下郡桑原郷が起源(ルーツ)である、新羅帰化族。ほか中臣鎌足天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家
②菅原氏。
③越智氏(物部氏の子孫)などにもみられる。

桑の広がる原野や広い地域が語源


名字由来netより引用


・・・よくわからないけど、そのうち何かわかってくる気がします。



私のルーツを辿る記事は、随時更新予定。
応援よろしくお願いします!